角を矯めて牛を殺す
いったい、日本人にとっての「保守活動」とはなんでしょうか。
私見ですが、国際社会の常識とルールに基づきながら、なおかつ、日本の自主と独立を維持すること、あるいは実現することではないかと思っています。日本人が日本の伝統と文化を愛し守ろうとする観点から、国のあり方を正しく決していくことができるようになることだと思います。
あくまで、日本や日本人がどうあるべきかのか問題なのであって、外国の人々がどうあるべきかの問題ではありません。
この「保守活動」の本質に照らせば、韓国人が石碑を建てたからやめさせようとか、韓国人が海の名前を変えようとしているからやめさせようとかということは、あくまで些末な問題にすぎないとすら考えています。
「保守」とは、究極的には日本人がどうあるべきかの問題であって、アメリカ人や韓国人がどうあるべきかの問題ではないからです。
日本海呼称問題に関するホワイトハウスの請願をきっかけに、アメリカ政府や議員に対する署名や請願が一つの保守活動の常套手段の一つとして定着しつつあるように見受けられます。
私はこれは日本人の保守活動が、その本質から大きくそれていく危険をはらんでいると思っています。
アメリカの市民権をもつ日系人や、アメリカ在住の日本人がアメリカの政府や議員に請願をするなら分かります。自分たちの生活が関係しているのだから、その方たちが請願を出し、意見表明するのは当然のことです。
しかし、一般の日本国民までもが、アメリカ政府や議員に請願を出すことに夢中になりはじめるとき、日本の自主や独立は毀損されはしないのでしょうか。
他国の政府や議員に「請願=お願い」する日本人が日本にあふれかえるとき、日本の自主や独立は、本当に損なわれたりしないのでしょうか。
日本の自主や独立を損なってまで、慰安婦の石碑は取り除かなければならないものなのでしょうか。
日本は独立した国家として、日本人は独立国の国民として、常識と節度と品位のある方法で、強く世界に発言しアピールすればよいと思います。しかし、一般の日本人がアメリカ政府や議員に「お願い」するようなやり方での意見表明は、やはり正しいことだとは思いません。
アメリカが慰安婦の石碑だらけになっても、そのことによって日本の自主や独立は失われることはありません。
しかし、日本がアメリカ政府に「お願いをする」日本人だらけになるとき、日本の自主や独立は大きく損なわれると思います。
繰り返しますが、「保守」とは、韓国人やアメリカ人がどうあるべきかの問題ではありません。
日本人がどうあるべきかの問題です。
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