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2011年11月27日 (日)

ヘレン・ミアーズの「アメリカの鏡・日本」

ヘレン・ミアーズの『アメリカの鏡・日本』。日米開戦に至るまでの経過を客観的な視点から描いたすばらしい書物です。アメリカでは原典は長く絶版になっているそうですが、いつかぜひ動画にまとめたい書物です。

「反日プロパガンダ」というと、現在ではまず中国や韓国・北朝鮮が思い浮かびますが、もともと「反日プロパガンダ」なるものを一つの政治手法として大規模に展開した国はアメリカであり、ミアーズは、このプロパガンダがいかに日本の実態とかけ離れたものであったかを同書の中で的確に指摘しています。1900年の中国での義和団事件のどさくさにまぎれて内満州への侵攻を始めたロシアの南下を食い止めるために日本が戦った日露戦争それ自身は、侵略戦争ではなく、アジアの防衛のための戦争であり、同時に英国vsロシアの代理戦争という性格も持っていました。日本がロシアの敗戦の将や捕虜たちを丁重に扱ったのも有名な話です。

戦前の小学校初国語教科書(五年生)に載せられていた水師営の会見

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明治三十八年一月五日午前十一時---この時刻を以て、わが攻団軍指令官乃木大将と、敵の司令官ステッセル将軍とが会見することになった。会見所は、旅順から北西四キロばかりに地点、水師営の一民屋である。附近の家屋という家屋は、両軍の砲弾のために、影も形もなくなっていた。この一民屋だけが残っていたのは、日本軍がここを占領してから、直ちに野戦病院として使用し、屋根に大きな赤十字旗をひるがえしていたからである。前日、壁に残っている弾のあとを、ともかくも新聞紙で張り、会見室に当てられた部屋には、大きな机を用意し、真っ白な布を掛けた。下見分をした乃木将軍は、陣中にふさわしい会見所の情景にほほえんだが、壁に張ってある新聞紙に、ふと目を注いで、「あの新聞紙を、白くぬっておくように。」といった。新聞紙は、露軍敗北の記事で満たされていたからである。

 さきに一月一日、ステッセル将軍は、わが激しい攻撃に守備しきれなくなって、ついに旅順開城を申し出て来た。乃木将軍はこの旨を大本営に打電し、翌日、両代表は、旅順開城の談判をすましたのであった。その夜、山県参謀総長から、次のような電報があった。
「敵将ステッセルより開城の申し出をなしたるおもむき伏奏せしところ、陛下には、将官ステッセルが祖国のために尽くしたる勲功をよみたまい、武士の名誉を保持せしむることを望ませらる。右つつしんで伝達す。」
 そこで三日、乃木将軍は、津野田参謀に命じて、この聖旨を伝達することにした。命じられた津野田参謀は、二名の部下をつれて、ステッセル将軍のところへ行った。ステッセル将軍は、副官にいいつけて、軍刀と、帽子と、手袋とを持って来させ、身支度を整えてから不動の姿勢を取った。津野田参謀が、御沙汰書を読みあげると、副官は、これをロシヤ語に訳して伝達した。ありがたく拝受したステッセル将軍は、
「日本の天皇陛下より、このようなもったいないおことばをいただき、この上もない光栄であります。どうぞ、乃木大将にお願いして、陛下に厚く御礼を申し上げてください。」
といって、うやうやしく挙手の礼をした。乃木将軍が、

 たむかひしかたきも今日は大君の
      恵みの露にうるほいにけり

とよんだのは、この時である。

 四日に、乃木将軍は、ステッセル将軍に、ぶどう酒や、鶏や、白菜などを送りとどけた。長い間篭城していた将士たちに、このおくり物がどれだけ喜ばれたことか。

 会見の当日は、霜が深かったが、朝からよく晴れていた。十一時十分前に、スッテセル将軍が会見所に着いた。白あし毛の馬に、黒い鞍を置いて乗っていた。その後に、水色の外套を着た将校が四騎続いて来た。土塀で囲まれた会見所に入り、片すみに生えていたなつめの木に、その馬をつないだ。
 まもなく、乃木将軍も、数名の幕僚とともに到着した。乃木将軍は、黒の上衣に白のズボン、胸には、金鵄勲章が掛けられてあった。静かに手をさしのべると、ステッセル将軍は、その手を堅くにぎった。思えば、しのぎをけづって戦いぬいた両将軍である。
 乃木将軍が、
「祖国のために戦っては来たが、今開城に当たって閣下と会見することは、喜びにたえません。」
とあいさつすると、ステッセル将軍は、
「私も、十一箇月の間旅順を守りましたが、ついに開城することになり、ここに閣下と親しくおあいするのは、まことに喜ばしい次第です。」
と答えた。一応の儀礼がすむと、一同は机を取り囲んで着席した。
 ステッセル将軍が、
「私のいちばん感じたことは、日本の軍人が実に勇ましいことです。殊に工兵隊が、自分の任務を果たすまでは、決して持ち場を離れないえらさに、すっかり感心しました。」
というと、乃木将軍は、
「いや、ねばり強いのは、ロシヤ兵です。あれほど守り続けた辛抱強さには、敬服のほかありません。」という。

「しかし、日本軍の二十八サンチの砲弾には、弱りました。」
「あまり旅順の守りが堅いので、あんなものを引っぱり出したのです。」
「さすがの要塞も、あの砲弾にはかないませんでした。コンドラテンコ少将も、あれで戦死したのです。」
 コンドラテンコ少将は、ロシヤ兵から父のようにしたわれていた将軍で、その日もロシヤ皇帝の旨を奉じて、部下の将士を集めて、激励していたさなかであった。
「それに、日本軍の砲撃の仕方が、初めと終わりとでは、ずいぶん変わって来ましたね。変わったというよりは、すばらしい進歩を示しました。たぶん、攻城砲兵司令官が代わったのでしょう。」
「いいえ、代わってはいません。初めから終わりまで、同じ司令官でした。」
「同じ人ですか。短期間にあれほど進むとは、実にえらい。さすが日本人です。」
「わが二十八サンチにも驚かれたでしょうが、海の魚雷が、山上から泳いで来るのには、面くらいましたよ。」

 うちとけた両将軍の話が、次から次へと続いた。やがてステッセル将軍は、口調を改めて、
「承りますと、閣下のお子様が、二人とも戦死なさったそうですが、おきのどくでなりません。深くお察しいたします。」
とていねいに悔やみをのべた。
「ありがとうございます。長男は南山で、次男は二百三高地で、それぞれ戦死をしました。祖国のために働くことができて、私も満足ですが、あの子供たちも、さぞ喜んで地下に眠っていることでしょう。」
と、乃木将軍はおだやかに語った。

「閣下は、最愛のお子さまを二人とも失われて、平気でいらっしゃる。それどころか、かえって満足していられる。閣下は実に立派な方です。私などの遠く及ぶところではありません。」
それからステッセル将軍は、次のようなことを申し出た。
「私は、馬がすきで、旅順に四頭の馬を飼っています。今日乗ってまいりました馬も、その中の一頭で、すぐれたアラビヤ馬です。ついては、今日の記念に、閣下にさしあげたいと思います。お受けくだされば光栄に存じます。」
乃木将軍は答えた。

「閣下の御好意を感謝いたします。ただ、軍馬も武器の一つですから、私がすぐいただくわけにはいきません。一応軍で受け取って、その上、正式の手続きをしてからいただきましょう。」
「閣下は、私から物をお受けになるのが、おいやなのでしょうか。それとも、馬がおきらいなのでしょうか。」
「いやいや、決してそんなことはありません。私も、馬は大すきです。さきに日清戦争の時、乗っていた馬が弾でたおれ、大変かわいそうに思ったことがあります。今度も、やはり愛馬が弾で戦死しました。閣下から馬をいただけば、いつまでも愛養いたしたいと思います。」
「あ、そうですか。よくわかりました。」
「ときに、ロシヤ軍の戦死者の墓は、あちこちに散在しているようですが、あれはなるべく一箇所に集めて墓標を立て、わかることなら、将士の氏名や、生まれた故郷も書いておきたいと思いますが、それについて何か御希望はありませんか。」
「戦死者まで、深いお情けをいただきまして、お礼のことばもありません。ただ、先ほども申しましたが、コンドラテンコ少将の墓は、どうか保存していただきたいと思います。」
「承知しました。」
 やがて用意された昼食が運ばれた。戦陣料理の乏しいものではあったが、みんなの談笑で食事はにぎわった。

 食後、会見室から中庭へ出て、記念の写真を取った。別れようとした時、ステッセル将軍は愛馬にまたがり、はや足をさせたり、かけ足をさせたりして見せたが、中庭がせまいので、思うようには行かなかった。やがて、両将軍は、堅く手をにぎって、なごり惜しみながら別れを告げた。

しかし、その勝利によって日本が合法的に満州の権益をロシアから譲り受けた時、まだ中東の石油も発見されてはおらず、満州の地にどん欲な目を光らせていたアメリカは、蒋介石の中国国民党と結託し、日本は天皇を現人神とする狂信的で野蛮で残忍で異質な民族であり侵略国家であるというイメージを国際社会にばらまくようになります。「南京虐殺」を含む日本の戦争犯罪に関する誇張やプロパガンダもこの過程の中で生み出されていきます。

この「反日プロパガンダ」は、戦後はアメリカの手を離れ、特に天安門事件以降の中国共産党や、韓国・北朝鮮などの国々に引き継がれて今でも日本は苦しめられています。しかし、80年代のジャパン・バッシングや、昨年のトヨタ・バッシングに見られたようにアメリカの中でさえも、完全になりを潜めたわけでもありません。

この、そもそもはアメリカに由来する「反日プロパガンダ」が、東アジアにおける相互の反目を作り出し、冷戦以降は、日本のアメリカへの軍事依存を正当化し、アメリカに組み込んでいく装置として活用されてきたように思います。日本にとっては、アメリカによって作り出されてきた袋小路であり、ねずみ取りのような後ずさりのできない罠にも思えます。

この袋小路を突破する道はどこにあるのでしょうか。

欧米人がやってくる以前、特に18世紀の東アジアは高度な平和と安定を謳歌していました。互いに干渉し合うことなく、深く関わり合うこともなく、反目し合うこともなく、平和に共存していました。日本が従来の伝統を捨てて、中国大陸に深くかかわり合いをもとうとするようになったのも、19世紀以降、東アジアをも蹂躙しつつあった西洋の帝国主義の中で、自国の独立を守ろうと振る舞い、巻き込まれていったことに原因があります。歴史の中で初めて海洋国家として太平洋へと覇権を延ばしつつある中国の帝国主義や、韓国・北朝鮮による日本を同化したい、今度は日本を併合してやりたいという執拗な熱望に、私たちは注意を払う必要はありますが、もともと東アジア各国は互いにそれほど強い反目もなく、干渉し合うことなく、共存していた歴史があったことも、忘れずにいたいと思います。

自立した防衛力を回復し、アメリカに対しては毅然とした対等な外交を、中国・韓国・北朝鮮に対しては徹底した不干渉を、台湾や東南アジア、南アジアなどに対しては深い友好関係を結んで、「自由と反映の弧」を描き、もともとアジアが謳歌していた平和を取り戻したいものです。



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コメント

ヘレンメアーズの「アメリカの鏡:日本」は当時の世界観を知るには必読です。当時の日本の産業力を背景とする武力が、本当にアメリカの脅威だったのか、的確な数値を持って説明しています。

またアメリカが日本を脅威と感じる要素が無いにもかかわらず、なぜ日本を敵視するようになったのか。
韓国が「奴隷扱い」だと叫ぶ理由がどこにあるのか?
南京を攻撃したのは1927年の米国英国でもある理由

などが書かれています。

ぜひ読んでいただきたい本です。
ちなみにマッカーサーは1948年に発刊されたこの本に対してこう言い残しています。
『占領が終わらなければ、日本人はこの本を日本語で読むことはできない。』1949年8月6日

投稿: Rach | 2011年12月 1日 (木) 13時08分

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