« 日本の孤独 | トップページ | 怒れるタイ人 »

2011年8月17日 (水)

場所としての国家

「場所論(トポロジー)」という哲学分野で取り上げられる主題があります。

単なる延長としての「空間」の中に生身の人間が住まい、やがて価値や意味や記憶にあふれた「場所」として変質していくとき、その「場所」を成立させるものの本質はなんであるかを論じるのが、場所論のテーマになります。

万葉集の時代から日本は「言靈の幸ふ國」と呼ばれてきた通り、日本という国の特質はその豊穣な「場所性」にありました。

無機質な砂漠の中で超越する神を仰ぐ砂漠の宗教が、やがて、物質(延長)と精神とを峻別する西洋近代の二元論を生み出していたとき、豊かな森と変化に富んだ四季の中に暮らしていた日本人たちは、自分たちの暮らす世界を常に空間と価値とが融合した「場所」としてとらえ、森や泉の脇に神社の祠を建て、さまざまな物語や歌を編みながら、暮らしていました。

家が、私たちにとっては無機質な空間ではなく「場所」であるように、歌と物語とさまざまな文化的伝承にあふれたこの国は、私たち日本人にとって無機質な空間ではなく、一つのなつかしい「場所」です。

人間は、「場所」を作ることを通して人間となり、「場所」は、人間を育むことを通して「場所」となります。

ところが国家が「場所」であるというのは必ずしも自明なことではありません。

中華人民共和国が、一種の連邦制によって成立していた清の最大版図を維持するために採用した方法は、意味や価値を支える宗教や伝統的文化を国内から極力消し去ることで、国家から「場所性」を除去し無機質な「空間」に変えることでした。国家が「空間」に還元されれば、異なる文化的な背景をもつ56民族は「平和的に共存」できると考えたためです。「文化大革命」では多くの文化的遺産が破壊されました。国家を空間や箱としてとらえるのが、共産主義国家の典型的な国家観です。

いわゆる「反日」と呼ばれる勢力が執拗に画策していることも、日本から「場所性」を消し去り、誰もが「平和的に共存」できる無機質な「空間」に極力変質させていくことです。

たとえば、彼らが靖国神社を嫌うのは、そこがたくさんの物語や記憶にあふれた場所だからです。「場所」を「空間」に還元するには、物語や記憶は極力取り除かなくてはなりません。

たとえば彼らがスポーツの表彰シーンを放送したくないのも、それが新しい「物語」として誕生してしまうためです。「物語」は日本という国家の「場所性」をより強固なものにしてしまいます。

たとえば、彼らがテレビを、日本の歌や物語(ドラマ)ではなく、自分たちの国の歌や物語(ドラマ)であふれさせようとしているのも、日本の「物語」を彼らの「物語」とリプレイスすることで、日本を自分たちの「場所」に変質させたいと願っているためです。


« 日本の孤独 | トップページ | 怒れるタイ人 »

コメント

この記事を動画にして、ニコニコ動画に投稿しました。

場所としての国家
http://www.nicovideo.jp/watch/sm21581110

投稿: よしふる | 2013年8月13日 (火) 12時19分

トポロジーなるものを初めて知りましたm(_ _)m
"何もない"空間や箱のなかに閉じ込められ、
その中で生きていくことを強要された人たちが
とても可哀想でなりません。
でも、その中で生きてきた人たちにとっては
その世界が全てかと思うと、、、
根の深さを思うと気が遠くなりそうな気持ちです。

投稿: tama | 2011年8月17日 (水) 14時16分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 場所としての国家:

« 日本の孤独 | トップページ | 怒れるタイ人 »